2005年 12月 07日
『愛人 ラマン』――イマージュとしての文章
フランスでは1984年に発表されるやいなや、そのスキャンダラスな内容のせいもあってか、たちまちベストセラーとなり、ゴンクール賞まで受賞した作品。
この作品はあるひとつの映像(イマージュ)、さらに複数の映像をめぐって書かれている。小説の冒頭でデュラスは次のように書く。
デュラスの心のなかに強く刻み込まれたこの映像をきっかけとしてこの作品は語られ始める。(フィクションである『愛人 ラマン』の主人公を現実の作家と同一視することはできないことを前提としたうえで、あえてここでは主人公をもデュラスと呼ぶことにする。)それはいったいどんな映像か? まだ15歳の彼女がメコン河の渡し舟に乗り、ひとり手すりに腕をかけて広大な河を静かに眺めている。その船上のすぐそばにはお仕着せを着た運転手つきの黒い大型リムジン。その中からヨーロッパ流の服装をした中国人が彼女をじっと見つめている。そうした映像、デュラスにとってかけがいのないものであるが決して写真に撮られることのなかった映像がこの作品の起源にある。
『愛人 ラマン』を読んでいると、デュラスはあたかも写真や映像を見ながらそれを描写しているような印象を受ける。訳者の清水徹氏によると、実際この小説は、デュラスの人生における写真と自分の映画からのスティルをアルバムにしてそこにデュラスが文章を加えるという企画がきっかけとなって構想されたということだ。この決して写真に撮られることのなかった映像のほかにも、母や兄弟と撮った写真についてデュラスはこの小説のなかで何回も言及している。現実に写真として記録されたどうかは問わず、様々な映像を描写するかのようにこの作品は書かれているのだ。
主人公の人称が一人称の「わたし」と三人称の「彼女」や「娘」との間で揺れ動くのもこのせいだろう。外部にある映像を描写するように書かれるときにはデュラスは他人に言及するように三人称を用い、その映像の内部に自分が入り込んでいるかのように描かれるときには一人称が用いられると言えるのではないか? そして現実のデュラスの人生とフィクショナルな小説の主人公との間にも微妙な揺れ動きがあるだろう。現実にデュラスの人生に起こった出来事をもとにしてはいるものの、それはあくまでもフィクションの世界で消化されたものであって告白的な私小説として捉えるべきではない。現実とフィクションのあわいに垣間見えるものこそ『愛人 ラマン』という作品なのである。そうした往還に加えて、この作品には現在と過去(そして未来)との間の往還もある。思い起こされる子供時代の出来事、印象的な女たちについての回想、母や兄弟との思い出などが、デュラスと中国人の男との話の間に散りばめられている。あたかも平面の上に時代を異にする映像を並べて、それを眺めながら文章が綴られていくような印象だ。
『愛人 ラマン』はまさに文章によって描かれた映像のアルバムだと言えるだろう。デュラスの心に刻まれた映像、実際に存在する映像がデュラスの流麗な文章によって展開され、「流れゆくエクリチュール」のなかへ注ぎ込まれていく。まるで映画を、それもデュラスの映画を見ているような感じさえしないだろうか? 『愛人 ラマン』は映画キャメラマンであるブルーノ・ニュイッテン(数々のデュラス映画で撮影監督を務めている)に捧げられている。すでにこの作品はジャン=ジャック・アノーによって映画化されているが、デュラス自身によって監督された『愛人 ラマン』をぜひ見たかったというのはおそらく私だけではないだろう。デュラスが写真として存在しない映像を心に思い浮かべていたように、この小説を読みながら、存在しないデュラス監督作品『愛人 ラマン』を想像してみるのも一興ではないだろうか?
フランスでは1984年に発表されるやいなや、そのスキャンダラスな内容のせいもあってか、たちまちベストセラーとなり、ゴンクール賞まで受賞した作品。
この作品はあるひとつの映像(イマージュ)、さらに複数の映像をめぐって書かれている。小説の冒頭でデュラスは次のように書く。
わたしはあの映像のことを考える。いまでもわたしの眼にだけは見えるあの映像、その話をしたことはこれまで一度もない。いつもそれは同じ沈黙に包まれたまま、こちらをはっとさせる。自分のいろいろな像のなかでも気に入っている像だ。これがわたしだとわかる像、自分でもうっとりとしてしまう像。(p.7-8)
デュラスの心のなかに強く刻み込まれたこの映像をきっかけとしてこの作品は語られ始める。(フィクションである『愛人 ラマン』の主人公を現実の作家と同一視することはできないことを前提としたうえで、あえてここでは主人公をもデュラスと呼ぶことにする。)それはいったいどんな映像か? まだ15歳の彼女がメコン河の渡し舟に乗り、ひとり手すりに腕をかけて広大な河を静かに眺めている。その船上のすぐそばにはお仕着せを着た運転手つきの黒い大型リムジン。その中からヨーロッパ流の服装をした中国人が彼女をじっと見つめている。そうした映像、デュラスにとってかけがいのないものであるが決して写真に撮られることのなかった映像がこの作品の起源にある。
『愛人 ラマン』を読んでいると、デュラスはあたかも写真や映像を見ながらそれを描写しているような印象を受ける。訳者の清水徹氏によると、実際この小説は、デュラスの人生における写真と自分の映画からのスティルをアルバムにしてそこにデュラスが文章を加えるという企画がきっかけとなって構想されたということだ。この決して写真に撮られることのなかった映像のほかにも、母や兄弟と撮った写真についてデュラスはこの小説のなかで何回も言及している。現実に写真として記録されたどうかは問わず、様々な映像を描写するかのようにこの作品は書かれているのだ。
主人公の人称が一人称の「わたし」と三人称の「彼女」や「娘」との間で揺れ動くのもこのせいだろう。外部にある映像を描写するように書かれるときにはデュラスは他人に言及するように三人称を用い、その映像の内部に自分が入り込んでいるかのように描かれるときには一人称が用いられると言えるのではないか? そして現実のデュラスの人生とフィクショナルな小説の主人公との間にも微妙な揺れ動きがあるだろう。現実にデュラスの人生に起こった出来事をもとにしてはいるものの、それはあくまでもフィクションの世界で消化されたものであって告白的な私小説として捉えるべきではない。現実とフィクションのあわいに垣間見えるものこそ『愛人 ラマン』という作品なのである。そうした往還に加えて、この作品には現在と過去(そして未来)との間の往還もある。思い起こされる子供時代の出来事、印象的な女たちについての回想、母や兄弟との思い出などが、デュラスと中国人の男との話の間に散りばめられている。あたかも平面の上に時代を異にする映像を並べて、それを眺めながら文章が綴られていくような印象だ。
『愛人 ラマン』はまさに文章によって描かれた映像のアルバムだと言えるだろう。デュラスの心に刻まれた映像、実際に存在する映像がデュラスの流麗な文章によって展開され、「流れゆくエクリチュール」のなかへ注ぎ込まれていく。まるで映画を、それもデュラスの映画を見ているような感じさえしないだろうか? 『愛人 ラマン』は映画キャメラマンであるブルーノ・ニュイッテン(数々のデュラス映画で撮影監督を務めている)に捧げられている。すでにこの作品はジャン=ジャック・アノーによって映画化されているが、デュラス自身によって監督された『愛人 ラマン』をぜひ見たかったというのはおそらく私だけではないだろう。デュラスが写真として存在しない映像を心に思い浮かべていたように、この小説を読みながら、存在しないデュラス監督作品『愛人 ラマン』を想像してみるのも一興ではないだろうか?




